たとえばこんなはなし

 

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適応障害と診断されて大好きだった仕事から離れて、もうすぐ1年が経とうとしている。

 

辞めた話→(https://t.co/Z3UiwwFdQv)

 

カウンセリング先やメンタルクリニックでいまだに当時を思い出して、悔しさや虚無感や怒りで感情がグチャグチャになって泣いてしまうこともあるけれど、少しずつ「終わった過去の出来事」として受け止められるようになってきた。ここに綴った言葉たちも今なら「あのときは大変だったな…」と少しだけ思える。でも笑い飛ばすことはまだ出来ない。

 

形のないものが壊れるとこんなにも長引くのか、というのがシンプルな感想。トラウマとかフラッシュバックという言葉を使うと大袈裟だけど、ふとしたきっかけで気持ちがガクッと落ちてしまい、動けなくなり、そしてまた何かのきっかけで生活が出来るようになる。それをずっと繰り返している。

 

無職になって1年と言うと聞こえは悪いけど、何をするにも誰かの同意や許可を得たり、誰かのためだったり、自分の嫌だと思うことを我慢したり、とても曖昧に生きてきたから、生まれて初めて「本当の自由の意味」を噛み締めながら過ごしている。

相手の顔色を伺わず、どう思われるか気にせず、これ!と思う自分の好きなことを、直感を信じて選択するってすごくむずかしい。自分を良く見せたいって感情はきっと誰の中にもあるだろうし。

一人暮らしの小さな部屋で、誰の何のためでもない、まっさらな自分とたくさん向き合った。

まず最初に漫画、アニメ、小説、お笑い、美容、メイク、料理、と今まで好きだったものをとにかく取り返した。その日の体調によっては何にも没頭出来ないこともあるけど、あのとき手離すことしか出来なかった好きなことにもう一度ちゃんと囲まれている。人は所詮孤独だから、人生を豊かにしてくれるものは結局趣味なのかもしれない。

次に、心底どうでもいいやり取りをしているSNSが馬鹿らしくなって少し距離を置いた。もちろん感情を言語化して発散させることは大事だと知っているけど、リアルな友達や顔見知りがいる界隈ではやりたくない。プライドが高い、とも受け取れるかもしれないけど(自分の弱さを見せられるのもその人の強さだと思う)、私は単純に「可哀想」とか「大変だね」とか「心配」で人の気を引きたくない。「大丈夫?」から始まる「心配してくれてありがとう」の定型文のようなやり取りに意味があるとは正直思えないし、SNSに囚われている人が多すぎる。私は人との繋がりを再認識して安心したいわけじゃないから、実物を知らない匿名のインターネットでたまにこうして感情を言語化している。

コロナ禍でなければまた違ったのかな、とも思う。SNSでの繋がり方がリアルの人間関係に大きく影響するようになっている気がする。付き合い方が今とてもむずかしい。

 

 

鬱状態が回復したきっかけは確実に一人暮らしになったことだった。

 

声が聞こえるだけで耳の奥がパチパチと鳴るような不愉快な三半規管の音がいつの間にかなくなって、やっぱりずっと嫌だったんだと思い知った。(飛行機に乗ったときやあくびをしたときの音)

 

警察や区の施設が介入して、肉親から住民票を取られないようにガードをかけた、なんて匿名のインターネットだから言えるのであって、無職を1年も続けていたり、あまりまともな人生じゃないけど、嫌と思うことから離れて、逃げて、やっと自分の人生の主人公がちゃんと自分になった気がする。最初からそうだったはずなのに。

 

用意された期待のレールからはみ出ないように慎重に歩いてきたし、何に使ったか考えたくもないけどお金もたくさん取られてきた。帰る場所がいつまでもなかった。連んでいる友人が嫌いだったし、お酒は好きだけどダラダラと長い時間飲み続ける生活は理解できなかった。強制される思想が憎かった。

逃げられない、と洗脳されていたのは私の方だったのかもしれない。

 

職場も家庭環境も人間関係も、乱暴なやり方だったかもしれないけれど全部リセットして、確実に新しい自分の人生を歩み始めた1年だったと思う。色々なことがあったから想像力が少し深くなった気がするし、軽はずみな言葉をより一層選ばなくなった。これまで経験してきたものは無意味とは思わない。きっとこれで正解だった。

 

医療従事者の端くれとしての知識と技術はなくなるものじゃないから、いつかまた…とは思うけど、もう少し休んだら、違う世界も覗いてみたいな。

 

自分の年齢を3で割った数字が人生の時間帯、みたいな話を聞いた。27歳は3で割ると9時。

 

まだまだ朝の方にいると思うと、気持ちが軽くなるね。

 

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先日公開した適応障害の話( https://t.co/Z3UiwwFdQv )のおまけ。

実は今こうやってブログをつらつらと書いてるのも本当に驚くべき進歩で、当初はスマホを見ることも出来なかった。SNSでの友人たちの投稿に自分だけ時間が止まっているように感じてしまい、以前のようにチェック出来ずにLINEの返事も打てなかった。手のひらサイズの画面にびっしり映る文字の羅列が目で追えず、読むのも億劫だった。

 

スマホすら見る気力がないと、1日どうやって過ごそう?となる。テレビも色んな人がいっぺんに話していて頭の理解が追いつかなかった。文字の羅列が追えないから小説も漫画もむずかしい。20分間アニメをじっと見るのもなんだか気が乗らなかった。

抗不安薬を飲んだら眠気の副作用でそのまま寝る、というのを繰り返していたけど、味気のない毎日。気分の落ち込みがそこまでひどくない日は薬を飲まずにいたから、家事以外にすることがなく本当に手持ち無沙汰だった。

 

そんな日々を過ごす中、ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルドを手に取った。

このゲームによって私の死んだような空白の毎日は一変した。

オープンワールドの広大な世界、ため息がこぼれるくらい綺麗なグラフィックの森や川、海、砂漠、湖、雪国、草原、火山。そして禍々しいハイラル城。

朝が来れば夜になって、晴れの日も雨の日も雷、雪、曇りの日もあって、自然界のすべてを楽しめる仕様に、これは本当にゲームなのか…?と、何処を見ても綺麗な景色にとてつもなく感動した。(私の中のゲームはDSで止まっている)

ゲーム開始当初はリンゴを拾ったりキノコや魚を採ったりするだけでワクワクした。そして火をおこせば料理も出来た。

どこまでも広がる世界は、どこまでも自由で、険しい崖もすべて登れるし、馬を捕まえて乗ってもいい、高い所からパラセールで飛べるし、本当になんでも出来る世界に私はいた。

 

いつの間にか私は家の中にいながら大冒険をしていたのだった。

 

朝起きて少し調子が良いと、世間のみんなは学校に行ったり仕事に行ってるのに、私はゲームをしちゃうぞ〜〜と、学生時代に仮病で休んだときの優越感に似た感覚でswitchの電源を入れた。

広大な世界のマップを手に入れるべく、まずは遠くに見える塔を目指した。その道中で100個以上ある謎解きがメインの試練の祠(ワープポイント)も探し、馬宿を見つけて目印にして、襲ってくる魔物を倒して自分の武器をどんどん強くしていった。不自然な石の下などに巧妙に隠れている妖精のコログも探した。

 

塔になんとか辿り着きマップが広がるたび、ワープポイントを見つけ試練をクリアするたび、コログを見つけるたび、私はゼルダの世界の中で小さな成功体験を何度も何度も繰り返していた。これは後から調べてみると、自尊心の回復や自信に繋がっていたらしい。

 

魔物を倒すのはなんでもアリで痛快で楽しかった。剣を振り回すのはもちろん、弓で射抜く、何回も爆弾を投げて吹き飛ばす、高いところから大きな岩を転がして当てる…言葉にするとむごいけど、まさにストレス発散だった。ゲーム初心者の私でさえも倒せた!というのも小さな喜びだった。

 

なんでも出来る自由な世界で、主人公(リンク)の100年前の記憶を思い出しながら進んでいくストーリーにもまた胸が熱くなった。ミファー、リーバル、ダルケル、ウルボザ、そしてゼルダ。大厄災の悲しいストーリーではあるが、キャラクターそれぞれの個性が魅力的で何度もムービーを見返しては感極まって泣いた。

道中にいる魔物たちもただ襲ってくるだけではなく、魔物なりの1日の生活があり、観察してみると肉や魚を焼いて食べてゲップをしていたり、火を囲んでピョンピョン踊って楽しそうに宴をしていたり、馬に乗って狩りをしていたり、夜になるとイビキをかいて就寝していた。ちょっと可愛い。まあ、そのあと不意打ちで剣を振りかざすのですが…。

 

ストーリーやマップを進めていくと、どうしても攻略がむずかしい試練が出てくる。そうするとなんだか悔しくてスマホでやり方を調べる、ということが出来るようになった。

億劫だったスマホを使うことが、文字を読むことが、自然と出来るようになったのだ。

そして次第にゲームのことを調べるだけではなく、クックパッドでレシピを見れたり、どんどん良い方向に進んでいった。日常生活を取り戻すきっかけはおそらくゲームだった。

 

ゲームは依存性があって良くないとか昼夜逆転の恐れがあるとか、今までゲームをやってこなかった人生だから悪いイメージを少なからず持っていたけれど、実際にプレイしてみると、楽しいことがひとつもない休職中の生活が、あっという間に知らない世界の自由な旅になった。

 

オードリーの若林が言っていた「ネガティブを潰すのはポジティブじゃない、没頭だ」をまさに体感した。

ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド、間違いなく私の人生の大冒険だった。

 

最近はモンスターハンターライズをプレイして戦闘アクションに重点を置いて楽しんでいる。ネガティブを潰すのは没頭。HRは210です。

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適応障害と診断されて2ヶ月半が経った。天職だと思っていた大好きな仕事を休職して、そして結局戻れずに辞めた。

 

毎朝8時には職場に着いて朝の準備をして、その日の患者さん次第で夜は22時前後まで働いた。

もちろんボーナスもないし、残業代という概念もない。好きな日に有給なんて取れないし、連休はお正月とお盆くらい。どんなに長く勤めても退職金も出ない。この業界はどこもこれが当たり前で、むしろウチはお正月とお盆休みがあるだけマシだった。

 

私が以前勤めていた職場は病院で、馬鹿みたいに忙しく、有り得ない人数の患者さんを診てきた経験と自負があった。(ドクターからのお尻を触ってくるなどのセクハラを拒否したらひどいパワハラに変わり辞めた)

転職してから1年目も、2年目も、3年目も、お給料は上がらなかった。経験値がすべての業界なのに新卒のなにも出来ないスタッフと同じ、手取りはずっと変わらず16万円だった。いつしか給与明細なんて開かなくなった。拘束時間と手取りのお給料を計算すると時給は500円〜600円くらい、気付きたくなかったから休職するまで計算しなかった。

患者さんの予約を取れば取るほど、頑張れば頑張るほど、ただただ自分が大変で毎日グッタリ疲れて損をするだけだった。

 

それでもこの仕事が好きだったのは、自分の手の、指先の僅かな感覚と勘で、治療方法の組み合わせ方の経験とセンスで、ときには他愛もない会話をして寄り添って、誰かの役に立っていたからだった。

エゴイストかもしれない、自分が勝手に感じていた使命感かもしれない、でもその誇りがなければここまで続けて来られなかった。

何度も何度も「先生に出会えなかったら治っていなかったよ」「もうこの身体は先生がいないとダメだね」と感謝をされて、必要とされてきた。

だけどもう、やりがいだけでは頑張れなくなってしまった。患者さんがどんなに認めてくれても、感謝してくれても、必要としてくれても、お金が貰えない。

給与の交渉をしに行った人たちが次々と退職していった。どうなったかは詳しく知らないけれど、弁護士を交えて揉めた人もいた。多分1年で10人近く退職してたと思う。LINEのグループをいつの間にか抜けているから知るだけで、会社からの報告は一切なかった。

 

2020年の年末あたりから、労働に見合わない賃金で働く自分が惨めすぎて帰宅するや否や玄関で泣き崩れることが増えた。それでも朝になれば患者さんがいるからと出勤した。

好きだったはずのメイクや美容もまったく出来なくなった。アニメもテレビもYouTubeも見れなくなって、自分の食べたい物もしたいことも分からなくなって、欲のすべてが消え去った。

その日が終わればまた次の日の準備をするだけで、明日があるから早く寝なきゃ!と毎日眠剤を飲んで、次の日の仕事に追われた。ロボット?

今までみたいに自分で自分の機嫌すら取れなくなった。コンビニスイーツを買ってみても、大好きなビールを買ってみても、ゆっくり湯船に浸かってみても、なにをしても気持ちが晴れることはなかった。

患者さんと上司のことが大好きだったことも全部裏目に出た。私がいないと全部上司がやる羽目になって大変だから、もう予約は取っているから、とにかく私がやらなきゃ。(職場は私と上司の2人でまわしていた)

前の職場をひどい理由で辞めているから、人間関係だけはお金でどうにもならない、と思っていた。人に恵まれているだけマシだ、とずっと我慢した。

 

2月末、ついに患者さんの前で元気な自分を作れなくなった。いつもみたいに声が出ない。

私はもう誰かを救いたいとも、役に立ちたいともなんとも思えなくなってしまった。モチベーションなんてとっくになくなっていた。

そしてとうとう上司の前で泣き崩れた。もうこれ以上頑張れません、と始業前に家の玄関かのように泣きじゃくった。

心療内科を調べて急いで受診した。それまでずっと、生理前のPMSPMDDだとばかり思っていたから。

病院では中度の鬱状態と言われ、仕事のストレスが原因だろうからとにかく休んでください、拘束時間どうなってるんですか?と診断書が渡された。

休んでみると今までなんとか責任感だけで動いていた身体から一気に力が無くなった。

ベッドから起き上がれない。

頑張ってお風呂に入ってもどうすれば良いのか、いつもどこから洗っていたのか分からなくなってお湯を出したまま立ち尽くした。髪も乾かせない。手足に鉛がついたみたいに重かった。気を抜くと目からボタボタと涙が止まらなかった。

何も出来ない自分がとにかく嫌だった。仕事も休ませてもらっているのに日常生活すら出来ない、劣等感に苛まれた。

それでも処方された抗不安薬を飲むと負の感情が30分程度で消えた。(薬で制御される私のこころとは?)

負の感情が消えると、今度は躁状態になった。やる気がどんどん湧いてくる。自分にやれることを頑張らなきゃ!と怖いくらいに前向きになり、洗濯をして、食器を洗って、掃除機をかけて、トイレ掃除、冷蔵庫の中身も取り出して掃除をして、調味料のフタも全部取って拭いたりした。

最初の頃は1日に何度も家の中で躁鬱状態を繰り返したけど、次第に気持ちの波が穏やかに、緩やかになっていった。ボタボタと泣き崩れることもなくなった。調子が良い日は外出が出来るようになって、スーパーに買い物に行き、料理を楽しんだ。近所のお店に1人でランチを食べに行けるようにもなった。

調子が良い日と悪い日を繰り返しながら、やっぱり自分の仕事を誇りに思っていたから復職したいと思った。仕事をしてる自分のことが、どうしても好きだったから。

それ以前に、泣き崩れて仕事が出来なくなったあの日から大好きな上司に直接謝っていない。このまま逃げるように退職するのが、心の底から申し訳なかった。

復職に向けて鬱や適応障害の治療法や体験談のブログを読み漁った。図書館に行って認知行動療法の本や自己評価の心理学の本を読んだりした。

4月末、抗不安薬を飲まずに日常生活が出来るようになった。ベッドから起き上がれる、家事が出来る、外出が出来る、物欲も食欲も戻ってきて、眠剤を飲まずに寝られる。ゴールデンウィークが開けたら復職しようと会社と話が進んだ。

5月の初め、私は帰宅時間が遅くなるほど鬱の傾向が強く出ていたから、なるべく早い時間帯での時短勤務を希望で出していた。けれどエリアマネージャーからは人が足りないから15時〜20時で働いてくれと提案された。患者さんは20時でも平気な顔をして入ってくるから、定刻で帰れるはずがないことは現場にいれば誰でも分かる。どうせ20時までの賃金で22時前後まで働かせるつもりだ。

仮に、20時だからもう帰っていいよと言われたとしても、残りの仕事(その日使用したタオルの洗濯と掃除など)を1人に押し付けて自分だけそそくさと帰れる図太さを、私は持ち合わせていない。早く帰ることが出来ても自分だけラクをするのは後味が悪すぎる。

 

極め付けに時給1050円と提示された。

これがもう、私の心をへし折る決定打だった。

 

自分がずっと誇りに思っていた国家資格が、中国では医師と同じような位置付けの仕事が、患者さんの身体に直接鍼を入れて治療できる唯一の技術が、ここ数年美容鍼の流行でさらに需要が高まっている女性鍼灸師が、たくさんの患者さんから必要とされてきた手が、東京都の最低賃金(1013円)より、たった40円ほどしか価値がないのだ。

自分の価値がハッキリと値段で見えたとき、なにかがプツッと切れたような、なにかがフッと消えてなくなるような、怒りと悲しみと絶望感と諦めがごちゃまぜになった不思議な感覚だった。

大切だった患者さんと上司との関係に、やっと踏ん切りがついた気がした。

納得出来ないので退職させてください、と言った。まさか私がそう言うと思わなかったのか時間も時給も考え直しますから…と言われたけど、もう訂正案すら聞きたくなかった。

1050円の一言で、すべてがどうでも良くなってしまった。

 

職場に残した荷物を取りに行き、上司にまた泣きじゃくりながら謝罪した。上司の奥さんのことも大好きだったから、2人に迷惑をかけてしまったことが本当に申し訳なかった。(奥さんはよく美容鍼の予約をしてくれていた)

体調が良くなったら美味しいご飯でも食べに行こうと言ってくれて、嬉しかった。お給料のことも段々とモチベーションがなくなっていたことも全部相談していたから、こうなってしまった結果を責めてないと良いな。(雇われ院長だからなにも権限はなかった)

 

エリアマネージャーには3年間有り難う御座いました、と言われたけど、大人気ない私は何も言わずに会釈だけして帰ってきた。

労働に見合うお給料だったら、私はこの仕事を天職だと信じて疑わず、なんでも頑張れたと思います、スーパーでも飲食店でも今は1100円で募集出てるの、ご存知無いですか…?喉まで出てきたけど、言わなかった。

職場には私しか鍼灸師がいなかったから、休職中の売り上げがガクッと落ちていたのをみて、少しは認めてくれるのかと期待していた。コロナの影響で在宅ワークが増えていたから、患者さんは減るどころか増えていた。エリアマネージャーには事の経緯・思っていることを全部話したのに、それでも1050円を提示してきたのだ。

 

それから鬱状態をぶり返した。

私は仕事をしてる自分が好きで、それだけで自分を保ってきたから、ひとりの治療家としての自分がそこら辺の誰にでも出来る仕事より価値がないとグサグサに刺された今、どんな風に生きようかと悩んでいる。

 

 

いつか自分のことを振り返ったとき「あのときは大変だったな」と過去の自分を愛おしく思えたら、この病気は寛解してると言えるでしょう、と誰かのブログで見たからツラツラとこんな話を綴ってみた。これでいつでも読み返せる。

 

色んなことを綴ってきたけど、私の、この指先の感覚は、自分以外の誰にも代わりがきかない、今後AIに技術を取られることもない、本当に本当にやりがいのある素晴らしい仕事だと、この思いだけは変わらないです。

でも、グループ整骨院の現場はこんなものです。(私にボランティア精神がもっと備わっていれば、もっと続けられたのかもしれませんが)

ひとつの職場の例として誰かの目に止まれば、もしその人がこれから同じ業界を目指す柔道整復師鍼灸師のタマゴだったら、なにかの参考になれば嬉しいです。

 

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大好きだったアルバイトの話をする。


大学生になったばかりの頃、ふと思い立ってたまたま見た求人サイトから唐揚げ屋さんとカフェと塾の講師のアルバイトに応募をした。



唐揚げ屋さんは不採用。


塾の講師は2年くらい勤めたけど、生徒の勉強を優先して自分の勉強が回らなくなったから途中で辞めてしまった。


個別指導の塾だったから、先生というより気軽になんでも聞けるお姉さんみたいな立ち位置で、小学生とも中学生とも高校生とも仲が良かった。



「先生これわかんない!」
「え〜私もわかんない!一緒に解こ!」



本当に適当な講師だった。だけど私の周りにはいつも生徒が集まっていてみんな楽しかった。ちゃんと成績も上がってたしオールオッケー。



カフェはオープンして間もない駅前のチェーン店。合わなかったら辞めれば良いや…と軽い気持ちで始めたつもりが、この仕事をしてなかったら今の私ではなかったと言えるくらいのめり込んだものだった。



考えてみると、人見知りで引っ込み思案だったのによく接客の仕事をしようとしたなと思う。


いらっしゃいませ、ありがとうございます、かしこまりました、最初は恥ずかしくて声すら出なかった。


私が勤めていたカフェはバイト用語でありがちな「〜〜になります」というような言葉遣いに対してとくに厳しかった。

お客様はアイスコーヒーになりません!220円にもなりません!

全部「〜〜でございます、〜〜円頂戴いたします/お預かりいたします」で統一だった。


今でもこの癖は抜けなくて、だけど1番丁寧な言葉遣いだって思ってる。



バイトを始めて1年くらいは人見知りは改善されず、オドオドしっぱなしで店長や先輩たちに手を焼かせた。






だけど職場で最年少だったからか、みんな私のことを可愛がってくれて、何度も教えてくれた。


人前に立って制服を着ると背筋がピッと伸びて、新しい自分に出会ったような不思議な感覚だった。



敬語がうまく使えなかったり、お客さんを目の前に言葉が詰まることもしょっちゅうだった。コーヒーカップを何度も落としたし、タバスコの瓶を10本以上一気に落として割ったこともあった。



失敗も多かったけど、なぜか辞めたいとは思わなかった。


カフェは早朝勤務だったから毎日4時半に起きて5時半にはお店にいた。


朝はバイトして、大学に行って、授業が終わったら塾に向かう日々。


朝は弱いはずなのに、四季の移り変わりを目の前で感じられる早朝がいつのまにか好きになった。


夏は涼しくて朝焼けが綺麗で、冬はまだ真っ暗な空に空気が澄んで星がよく見えた。


雪が積もった日、薄暗い朝に反射する真っ白で真っ青な雪景色が、見たことのない色で今でも忘れられないな。



先輩の見よう見まねだけど2年目あたりからようやく慣れてきて、人前に立つことに少し自信が持てるようになった。


自分に自信がつくと、お客さんに笑顔を振りまけるようになった。


常連さんと他愛のないお喋りまでできるようになった。


愛想の良いカフェ店員でいる自分が大好きになった。


出来ることが増えて楽しさが倍増した。早朝だったけど1度も寝坊したことがない。だってワクワクして起きちゃうんだもん。


後から聞いたら無遅刻無欠勤は過去に私だけだったみたいで、なんだか誇らしかった。


あんなにテンパってたのに、仕事に慣れてくると、混めば混むほど自分の中で盛り上がってきて、より丁寧でより早い接客になった。私はピンチになるとヒートアップできるタイプなようだ。


大学3年生のときには会社の中の接客コンテストで、全国のアルバイトの中から最終審査の10人くらいまで残った。



店長が本当に本当に喜んでくれた。



優勝できなくてちょっと悔しかったけど、当初の私を知ってるから別人みたいに大成長だねと褒めてくれた。




本当に過去の自分が嘘みたいだった。



天職だと思った。





バイトがない日は心を持て余すくらい、ずっとお店のことを考えていた。


3年目になると先輩たちはどんどん卒業していって年下の後輩が入ってきた。今度は私が教える番なのに、先輩風吹かすのはどうも苦手で向いてないなと思った。


それでも後輩たちは私を慕ってくれて仲良くしてくれて、私の接客がお手本だと言ってくれた。


先輩にもらった恩は後輩に返す、ちゃんと出来てたかな。



とにかく人に恵まれた最高の職場で、あのお店こそが私の居場所だった。



期末試験前も平気でシフトに入った。


学生は大体どこも同じ時期に試験だからみんな一斉に休んでしまい、店長が大変になってしまうから私は絶対に休まなかった。



大事な卒業試験前も、なんなら国家試験前も迷わずシフトインした。




大学は首席で卒業した。



国家試験もちゃんと合格した。




店長が10月に異動する前に、当時お酒が飲める人は私と店長しかいなくて、2人でビールを飲みながら本気で将来を相談したことがあった。



「本当にこのお店が大好きなんです。卒業したくないです。なんなら大学3年生くらいに戻りたいです。」




そんな無茶なことを泣きながら話した。



「せっかく国家資格を取るんだからちゃんとその道に進んだ方がいい、これは誰でもいつでも出来る仕事なんだから」


飲食業界の人は普通なら残ってくれと言いそうなのに、わがままを言う私をなだめてくれた。


そのあと店長は北海道に異動が決まった。



最後の出勤のとき「3年半本当にありがとう」と握手をしてくれて、お互いにキッチンの裏でボロボロと泣いてしまった。


お礼を言うのは私の方です、なにひとつわからない私をこんな風に育ててくれたのは紛れもなくこのお店でした。


涙に詰まってなにも言えなかったな。


国家試験が終わると、私はさらにシフトインしまくった。現実を見たくなかった。大学も授業なんてないし卒業式を控えてるだけだから、早朝から夜までお店にいた。


店長が異動して新しい店長になったことで少し諦めはついていたけれど、やっぱり未練はタラタラで就活は一切してなかった。良い根性だ。



大学の先生からどうするつもりなんだと何度も電話がかかってきて怒られた。



結局3月最後の1週間で就職先を決めた。マイナーな国家資格だからどこに行っても「是非うちに来てください」状態で、本当にナメた就職活動だった。




カフェ店員最後の出勤の日、大きな花束と手作りの卒業証書と卒業アルバムをプレゼントしてくれた。


最後の日は1日中レジに立たせてもらった。4年もいればホールもキッチンも出来るようになっていたけど、私は注文を取ってドリンクを出すレジがとくに好きだった。


全てが最後だと思うと何度も涙が溢れそうになった。


営業が終わって、辞めたくないとやっぱり泣き崩れたし、後輩も辞めないでください〜って泣いてたし、こんなにも名残惜しいことってある?ってくらい泣いた。


なにかをやり遂げたことが今までなかった。部活とかスポーツをやってこなかった私が、唯一頑張り通したことがカフェ店員だった。



医療系の専門職に就いた今でも、患者さんを前にしたらやっぱり接客の根本はあの頃の自分がいる。


治療効果も大事なことだけど、それ以上に人対人の仕事だと思ってるから、まずは患者さんとしっかり会話をして信頼関係を築くことを大事にしてる。


あのときアルバイトをしてなかったら、初対面の人を目の前に私はなにも話せてなかったかもしれない。



そうそう、北海道に異動した店長は社員を辞めて東京に帰ってきてしまった。




たまたま転職先が隣駅ということが判明して、つい最近飲みに行った。



「色んな店舗を見てきたけど、やっぱりあの店舗が最高で最強だった。自慢のお店だったし、人生の財産だった。出来ることなら過去に戻ってあのメンバーであのお店をまたやりたいね」と話してくれて、今までの全部を思い出して、聞き終わるまで泣かずにはいられなかった。



風の噂で、新しい店長になってからアルバイトの入れ替わりが激しくてみんな続かないと聞いて悲しくなった。





人生がひっくり返ったアルバイトのお話、私の中の尊い宝物で、今の私の仕事のブレない軸で、私の強みで、本当に自慢の4年間だった。




就職に背中を押してくれた店長、ありがとう。




今の仕事も結局大好きだけど、いつかまたカフェの店員さんになりたいな。






今月末はあの頃のみんなと集まるよ。

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仕事を辞めて2ヶ月間ニートをした。好きな時間に好きなことを好きなだけやった。人生の夏休みだった。



そのなかでも、とくに料理が楽しかった。実家にいた頃は自室にこもりっきりで、キッチンに立ったことなんて一度もなかった。





カフェのアルバイト時代、ホールもキッチンも両方やっていたから包丁はなんとか使えた。使い方を教えてくれた店長、先輩のお姉さんたち、ありがとう。






クックパッドやインスタをみて、作れそうなものを探していく。1番最初に作った豆腐ハンバーグは水切りに失敗してベチョベチョになった。ネットで調べて小麦粉で水分を吸い取った。




お菓子作りは元々好きだった。順番通りに決まった分量と決まった材料を入れるだけだから。




料理はお菓子作りと違った。野菜は下処理が必要だし、塩ひとつまみ、コショウ少々、しんなりしてきたら、香りが出てきたら、正直加減がわからなかった。




この2ヶ月、平日はほぼ毎日夕飯を作った。全部なんとなく、適当に。だけど不思議なことに全部美味しかった。なんだ、これで良いのか…と驚いたし、少し自信になった。




レシピ通りじゃなくても全然OKだった。創造が膨らんだ。大さじ一杯とかはちゃんと守ればだいたい美味しい。






スーパーも毎日値段が違う、面白かった。昨日高かった野菜が今日は安い。節約が好きだから、冷蔵庫にあったものを考えながら献立を決めるのは楽しかった。






ただの甘えかもしれないが、仕事から帰ってきてサッと料理を作るって知識ゼロだとむずかしいと思った。私は野菜の食べ方すら知らなかった。少しだけ、経験値を上げられた気がした。







仕事を辞めて、患者さんと接するキラキラした自分がなくなって、虚無だった。





だけど料理をすることで、小さな達成感が積み重なって少しだけ前向きになった。好きなことが増えて嬉しかった。



頑張ったら頑張った分だけ結果が出る、シンプルで良い。








なにより自分が食べるのが好きなのだ、栄養バランスや旬のものを考えて、これからどんどん料理ができるようになりたい。







明日はなにを食べようかな。